※末尾のコメントの部分も参照してください。友人からの経験が載せられています。
【4月13日:12日に書いた分に、抜けていた点、役にたった点など一部追加・修正しました】
【4月14日:これを読んだ父から抜けている点や間違いが指摘されたので、13日までに書いたに加筆・修正しました。】
【4月17日:母からの指摘を受けて加筆・修正しました。】
実家の防災対策を紹介しておこうと思う。防災というよりは、地震が来てライフラインが全て止まってもなるべく困らないようにするための対策。この地震でも何とかなったのだから、きっと誰かの役に立つだろう。量は3?4人には十分だった対策。なお立地的に津波の心配はまずないところだが、都市全体としては甚大な被害を受けた石巻市内だ。
【母からの訂正】水は5リットルのタンク1個と2リットルのペットボトルに水道水を備蓄し、1ヶ月に1回くらい中身を交換していた。これに加えて20リットルの空容器を2個物置に保管(以前はこれに満水にしていたので今回も満水になっていたのだと思っていました。) さらに、2リットルのペットボトル入りミネラルウォーターが12本ほど備蓄されていた。これらは飲用に使えるし、容器は給水所からの運搬に使うことができる。なおこのミネラルウォーターは5年前と10年前のものだったそう。このほか1997年頃が賞味期限の350ml缶入りミネラルウォーターが24缶あった。ペットボトルの水は地震発生後2週間の時点で、5本は未開封のまま残っていた。 さらに風呂桶は掃除する時以外基本的に水を張ってあるので、トイレの水などに使えた。 震災後自分が帰宅してからは、水を1)ペットボトルの水(基本的に使わないようにする)、2)水道・給水所の水、3)井戸水(洗濯程度は可)、4)トイレにしか使えない水(雪を溶かした水、米の研ぎ汁などを集めたもの、風呂桶にもともと入っていた水)、と質のちがいごとに分類して管理した。 給水所との間の往復ではポリタンクを運搬する方法が問題になるが、980円で以前に買ったキャリーカート(ミニ台車)が活躍した。段ボールなんかを載せてスーツケースのように引っ張るタイプのもので、固定用ゴムバンド着き。こういうやつ。 食料庫の中には日持ちするたくさんの食べ物が常に入っている(うどんやラーメン、パスタ、缶詰など)。乾麺は日常使いながら補充することで更新されていく。缶詰も同様で、親父の晩酌のつまみになって新たに補充されされたりするので、適宜更新される。米は5kg程度常に余裕を持たせてあるような気がするが、これは無意識のうちにやっている感じがする。 ティーバッグのお茶(紅茶など)がある程度の量は常備。下記の開放式石油ストーブ・やかんと組み合わせれば、急須などの洗い物なし(<—断水中はこれが重要)にお茶程度なら飲める。お茶が飲めるか否かなど、地震後のストレスの程度に影響すると思う。 断水時には食後の食器類を綺麗にするのに、紙で汚れを拭き取って、それから少量の水で洗うようにしていた。よって、紙、特にティッシュペーパーが重要な品。【下の友人のコメントも参照】 地震では都市ガスが最後まで復旧しないということを想定して(両親の1970年代の宮城県沖地震の経験からかな)、ガスはあえてプロパンガスにしてある。ガスを使うのはキッチンの調理器具だけ(給湯器は灯油)。なお、これを書いている地震発生1ヶ月後以上の時点で石巻の都市ガスはようやく一部地区で復旧しはじめた段階のようだ。 灯油は18リットルのポリタンクに4?7缶は常にストックされている。このストックは「古い方から使う」という(暗黙の)ルールがあって、常になるべく新しいものが保管される状態になっている。さらに容積が80リットルくらい150リットルある灯油タンクがあって、水道さえ出れば給湯器で温水が作れる(地震時は残量1/3くらいだったみたい地震発生後に燃油店の人が回ってきてくれた時点で80リットル程度残っていた)。【父からの指摘で訂正】 昔使っていた開放式石油ストーブを1つ捨てないで取っておいた。暖房以外にも、やかんでお湯は沸かせるし調理もできるので多機能。灯油と乾電池だけで動くから電源不要(いざとなれば乾電池もいらないはず)。また石油ファンヒータなどと比べると時間あたり灯油消費量は少ない(その分熱量が少ないが暖房としては何とかなる)ので、灯油調達の見込みがない時には重宝した。部屋の換気が重要(青森などでは震災後引っ張りだしてきて使って一酸化炭素中毒で運ばれた事例もあるようだ)。 停電時はロウソクで照明にしていたようだが、仏壇のロウソクのほかに、ティーライト(食卓を飾るための高さの低いろうそく)が多数ある。ティーライト用ホルダーと組み合わせることで、ティーライトの方が縦長の一般的なロウソクより安全性が高いと思われる。ただし自分が仙台から自転車で帰宅した直前にすでに電気が復旧していたので、実際にどうやっていたかは不明。 【父からの指摘】によると、炊事や食事など一定の光量が必要な時は、仏壇用の大型のロウソクを用いていたとのこと。高さ15cm程度の燭台に載せられるので明るかったとのことだ。それ以外は、ティーライトを2個使用していたそうだ。安全対策として、ティーライトホルダーに入れ、さらにそれを大きなガラスの灰皿の上に置いたとのこと(この安全対策により燭台+仏壇用ロウソクよりかなり光量が落ちるとのこと)。 重たい家具全てが金具や突っ張り棒などで建物に固定してある。また、父の書斎の本棚は最初から壁に組み込まれているので、本棚ごと倒れてくる可能性がないようになっている。 屋根瓦はスレート(西洋瓦)。日本瓦より落下する可能性が低く、この選択にも実は地震対策の意味合いがあった。 ブロック塀などは地中にちゃんと基礎があり鉄筋が入っているちゃんとした作りのものにしてある。市内の他の家を見ていると、大きな石(特に「野蒜石」)を積んだだけのブロック塀はずいぶん被害を受けているようだったが、こういった事態は避けられた。 乾電池はつねに一定量おいてある。単1が足りなくなりそうだったようだが、全体としては間に合った。また「乾電池置き場」の引きだしが決まっているので、探し出したりする必要がないこともポイントか。 「手回し発電式ラジオ」があって、停電時かつ乾電池がなくてもラジオからも情報を得られるようになっていた。 懐中電灯は一人1個以上持てる数があった。合計何個あるのかよくわからないが、1人2個までは足りない。 軍手・マスクも8?10双程度ストックがあったのが助かった。特にがれきをかきわけて進む必要のあるエリアに行くのには両方とも必須。 ガソリン不足の中で遠くに行くのに非常に重宝したのは自転車。幹線道路沿いに行く場合は自転車が、がれきをかきわけてどこかに行く必要がある場合は徒歩が活躍。4kmほど離れたところのスーパーが最初に再開したので、そこに行くためや、被災したエリアの親類宅などを見に行くのに使った。ただし母親は自転車に乗れないので徒歩でスーパーまで行っていた。 【父からの指摘】で追記:大小のリュックサックを、家族全員の分に余分なものを加えて常備。買い物に行った際に持ち帰るための収容力があり、また「両手が自由になること」が重要だが、これを私なりに理解すると、(1)両手にさらに荷物を持つことができ、(2)被災地の中を歩く際に手が空いている方が安全であり、(3)必要に応じてがれきをかき分けたりできる点がメリットかと思う。余分に常備しておいたのは、水などの重たいものの運搬を行うことでリュックが破損することがあるから、とのこと。
ざっとこんな程度の「備え」を意識的ないし無意識のうちに行っていた。これらのおかげがかなりあったと思うが、地震後は、私が到着する前も含めて、被災地としては比較的不自由の少ない生活ができたようだ。(むろん、電気が来なかったり水道が来なかったり、とそれはそれで大変。)
他に、あればいいなあと思ったのは屋根上に太陽光パネルと蓄電池。親類の家では、電気が復旧するまでの間でも、炊飯器でご飯を炊いたり、夜間の照明に使えたようだ。まあ、他と単価や投資額が全然違うが、売電もできるし、検討してもよいのではとも思っている。
ここからも14日に追記。
ところで、被災地を歩く要領はアウトドアに通ずるものがある。仙台から石巻まで50kmほどサイクリングしたが、ウィーン近辺で時折レクリエーションとしてサイクリングに出かけるから、50kmのサイクリングをした時に自分が消耗する体力というのはおおむね想像がついていた。また、自転車というのはゆっくりでも時速12km前後で走るし、急げば時速20km程度までは割と簡単に出ることも知っていた。ここから逆算して、体力を消耗しないようにゆっくりこいで、道草を食っても所要4時間半?5時間と見積もっていた。実際5時間ほどで到着したし、使った体力もおおむね想定した通りだった。
また、被災地の真ん中を歩く必要がある時には、軍手をはめてがれきをかき分けながら進むことがある。場合に寄っては民家につっこんだ車のボンネットに上り、車の屋根を越えて、そこから塀を越えて、流れ着いた家具を階段にして反対側に降りる、といったことが必要だった。これらは、落ちてくる物がないか、足下が安全かなど、滑るリスクはどこにあるかなど、確認しながら進んでいくという点で、山歩きの要領に通じる物があるように思う。