Louis Armstrong の What a Wonderful World を、こんなに哀愁漂わせながら唄うことができる街はあるだろうか?(この曲を知らない方もいるかも知れないが、Youtubeで検索すればいっぱい出てくると思う。数年前にソニーのCMで使われていたと記憶している。)というのが、サラエボの一つの感想だ。Sarajevska Pivara (サラエボビール醸造所)のレストランで突然始まった、ジャズの演奏。店内のどこかけほんのりしたけだるさがある空気も手伝って、全体として哀愁のあるものだった。中でも、よく知られたこの What a Wonderful World を、こんなにも哀愁漂わせて唄えるとは思わなかった。
サラエボは、現在はボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都であり、1984年には冬季オリンピックも開催された都市だ。1990年代の内戦の時代には、ほぼ3年にわたってセルビア系勢力に包囲された。当時発行された Sarajevo Survival Guide も有名だ。歴史をたどれば、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が市内中心で暗殺され、それが第一次世界大戦を引き起こした。その前は、オスマントルコの北西の辺境に近い重要な都市であったところだ。
街も興味深い。16世紀頃の、オスマントルコの時代の地区。その後19世紀にかけての、オーストリア=ハンガリー帝国の時代の街並み、その外側には20世紀の共産主義時代の街並みが続いている。様々な文化が共存している。が、どれもが混淆せず、それぞれに分かれているところが、この町の特殊さを現しているだろう。
サラエボから鉄道やバスで3時間ほどのモスタルには、内戦で破壊された建物がまだ数多く残り、さらにスターリ・モスト(古い橋)の破壊と再建という「内戦の傷跡」が色濃く残っているところだ(参考)。だが、サラエボの街そのものには、そういった形での内戦の目立った傷跡や象徴的なものはあまりない。目抜き通りの地面の所々に「赤いバラ」と呼ばれるペンキを塗ったところがあり、これが内戦中に死者が出た爆発地を示しているくらいだ。
考えてみれば、常に辺境にあった、と言ってもいいような街だ。オスマントルコ時代も、オーストリア=ハンガリー帝国時代もそうだ。さらに、皇太子暗殺とや内戦という暗い歴史も背負っている。オリンピックすら、立ち上がる力にはなりきれなかった。そんな「やるせなさ」のようなものが、町中あちこちに染み出しているような気がする所だった。と同時に、その中でも明るさを持って多くの人が暮らしていることが、不思議でもあり、驚異的ですらある、とも思える街だった。
アイデンティティに縋って生きている僕にとってあなたの人生は夢のようで羨ましい。
もし僕に勇気があればバックパッカーになって世界を旅したい。
残念ながら僕にそんな度胸もないし、旅をした後帰る場所も無い。
もし良ければこんな話を沢山聞かせて欲しいです。